前沢牛で知られるこの地域に本格的な町作りが行われたのは、伊達政宗の時代でした。重臣・大内定網が小浜城(福島県小浜)から前沢に8000石で入封、一国一城令に従って中世古城の前沢城を取り壊し、現在の前沢小学校の場所に居館を築いて藩の「要害」を整備しました。 直角に二度屈曲した「桝形」をはじめ家臣屋敷の平小路、足軽50人を住まわせた五十人町、町人町では毎月3日と7日に市が開かれた三日町や七日町など、小さいながらも城下町の遺構を今に残しています。 やがて前沢は領主不在の直轄地となり町人町は、奥州街道の宿場町としてかろうじて存続します。明治に入ると前沢には胆沢県の県庁も置かれた時期がありました。 もともと城下町としての期間はあまり長くなく、奥州街道の宿場町・在郷町としての時期が長い前沢の街並みは、旧街道沿いの商店街に面影が残り、桝形を越えて新町に入ると明治期に建てられた「大幸邸」の屋敷がありました。さらにその先、街道にそって所々に伝統的な商家が残っていました。