富津市中心市街から沿岸部を南へ。ちょうど富津市全体の中間地点に位置する佐貫の町があります。佐貫という地名は、古くは四国のそれと同じ”讃岐”と書きました。房総半島南端の安房国が四国の阿波からの移住者に由来するといいますから、この讃岐も同じ由来なのでしょうか?
讃岐は中世から木材の積出港として栄えた港町であると共に、房総半島の支配者である里見氏と関東に覇権を拡大する小田原北条氏との上総における勢力境界線でした。
江戸時代以降は1万石規模の小藩、佐貫藩の陣屋町として発展し、房総往還の宿場町的な位置づけの町としても賑わいました。
佐貫藩は1万石規模の小藩でしたが、歴代藩主は徳川家譜代の家臣が勤め、城主格を得ていた為に陣屋町では無く城下町の扱いになります。
佐貫町郊外の山に佐貫城址があります。小藩であった為に天守閣は築かれませんでしたが、中世里見氏の佐貫城を引き継いだ立派な山城であり現在も佐貫城址は史跡として保存されています。古い町並みは南総における信仰の山「鹿野山」へ通じる県道と国道が交差する辻付近にわずかながらの伝統的な家並みが残されています。
ランドマークはこの交差点に建つ、宮醤油店の重厚な商家建築です。
佐貫藩は徳川家康の関東入封に際し、譜代家臣の内藤家長を2万石でこの佐貫に封じた事に始まります。内藤家長は天下分け目の関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦のときに戦死。嫡男の内藤政長が段階的に7万石まで加増されて陸奥国磐城平藩に出世転封。変わって旗本から大名に昇格した松平忠重が、1万5000石で佐貫に入封するも、さらに加増出世して駿河田中へ。暫く廃藩の後、寺社奉行であった松平勝隆が1万5000石で入って佐貫藩が復活しますが、次代の重治が不祥事により改易されてまた廃藩。三河刈谷より阿部正鎮が1万6000石で入って、佐貫藩が復活し、以後8代続いて明治を迎えました。
さきに紹介した宮醤油店はこの阿部氏の時代である、天保5年(1834
)年創業以来200年近い歴史を誇る老舗でもあります。
|