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  東金
とうがね
 徳川将軍家の鷹狩り場として発展した風光明媚な町
 千葉県東金市東金・田間(新宿・新町)

 構成:商家 ■ 駐車場:なし
 
 

千葉市の東側に位置する東金という町は、微妙にこれといった掴み所のない町でありますが、JR外房線と総武本線を繋ぐ東金線であり、自動車専用道路の千葉東金道路などその名は意外に知られています。地理的にも発展する要素が見つけられないこの町が東総地域有数の都市となったのには、東金御成街道の存在があります。この御成街道とはもちろん将軍が通る街道の事。
このあたりは古くは鴇ヶ根という地名で、やがて訛化して東鐘となり東金と書くようになりました。殺風景な九十九里平野にありながら、山紫水明の自然に恵まれた景勝地でもあった東金は戦国大名酒井氏の小さな城下町が形成されていましたが、大きな転機は天正18年関東に入部した徳川家康の存在があります。何を思ったか家康は突然上総東金での鷹狩を所望し、佐倉城主土井利勝に東金御成街道の建設を命じます。
利勝は予定沿線地域の農民を総動員し、わずか1ヶ月で街道を開通させました。
東金には家康の邸宅「東金御殿」が建設され、三河国から高橋衆70騎がこの地に駐屯をはじめます。つまり「東金鷹狩り」は鷹狩りを名目にした、上総九十九里地方の地侍層へ対する軍事的なデモンストレーションがその目的だったのです。家康はまた、鷹狩り関連の役職に地侍を起用するなどアメとムチを用いて平定したのです。
やがて江戸幕府政権も安定し、太平の世が訪れ房総半島の不安要素も払拭されると、将軍の鷹狩りは行われなくなり、「東金御殿」も取り壊されました。
徳川幕府の駐屯地でなくなった東金ですが、以後も東金街道の要衝として山武郡の行政・経済・文化の中心地に発展していきます。明治以降は養蚕業の隆盛によって生繭の一大集散地として一層と発展し、多くの商人がこの地に集まり東金千軒の町並みが生まれました。最盛期の生繭商は30軒を数えたといいます。
現在東金駅の東側は「新宿・東上宿・南上宿」などの地名が残るものの、区画整理され、官公庁やショッピングセンター、そして新興住宅地からなる町の中心となっていますが、旧道が通る駅西口側は古い商店街の中にも伝統的な商家が所々に見られました。


 
 
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