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焼米坂(浦和坂)を登ってすぐの商家建築は米穀店
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浦和は埼玉県の県庁所在地で、東京近郊のベッドタウンとしてのブランドも確立している町。江戸期に中仙道の宿場町として発展した町だが、現在は副都心建設も進み、
おおよそ、往時を偲ばせる面影は一切残されていないと思っていました。
しかし、その予想を改められる事になりました。さすがに木曽路や美濃路のような連続性は無いものの、ビルやマンションの谷間にひっそりと伝統的な商家が残されていたのです。
浦和は海の無い埼玉県の町ですが、その名が示すのは海浜地名です。徳川家康が入国した時代の江戸の大部分は湿地帯だったといいますが、遙か昔の縄文時代には、東京湾の水が入り込み市域の半分以上が海面下であったとも言われています。そしてこの地に人が住み始めたのはおよそ1万年前、さらに浦和の名が登場するのは、ずっと後の鎌倉時代になります。そしてその中心部に残る岸町の地名。ミステリーです。
古い商家の多くはこの岸町に残されているのですが、当時の宿場町の中心である、上町・中町・下町は、現在の常葉・仲町・高砂であり、岸町は宿の外れであったようです。
浦和は江戸期に中仙道の宿場町として発展する以前の、戦国期からすでに宿場が形成され、市も立っていました。関ヶ原の戦い後、浦和は中仙道の宿場町に加え、徳川家康や紀州徳川家の鷹狩場であり、将軍が滞在する御成御前が置かれていました。御成御殿は後に本陣となり、星野家が問屋も兼ねて世襲します。その他脇本陣3軒、旅籠は15軒で、江戸に近すぎた事もあり、浦和宿の家数は273軒、人口1,230人の町とそれほど大きくはありませんでした。戦国期に始まった市場は江戸期の六斎市に引き継がれ、2と7の日に市が立ち賑わい、宿場町よりは市場町の性格が強く、浦和の市は昭和初期まで続きます。
浦和は明治になり、浦和県の成立でその県庁が置かれます。さらに大小の県が統合され埼玉県が成立すると、県庁は当初、岩槻に置かれる予定でしたが、当時の岩槻に県庁舎となる建物が無く、暫定的に浦和県庁舎が埼玉県庁舎として使用される事になります。しかし、それが既成事実となって岩槻に移る事はありませんでした。これが後々尾を引き、幾度か県庁移転運動が起こされますが、そのまま今に至るのです。
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鰻の寝床らしい、奥に伸びた商家の造り。開発の手が忍び寄る。 |
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