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日義村は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲がこの地で平家討伐の旗挙を行ったことにちなんで造られた地名で、それにまつわる南神宮社・旗挙八幡宮があり、社殿傍らに立つ樹齢800年の大欅は義仲の元服を祝って植えられたといわれています。宿場の名はその「宮」の下に開けた集落であった事から「宮ノ腰」と呼ばれた事に始まります。宮ノ越は木曽大工集団の集落で、江戸や尾張へと出稼ぎに出ていました。
宮ノ越付近は木曽の中では比較的開け、耕作地に恵まれた場所でした。宿の規模は南北4町32間、家数は137戸、人口は585人。本陣1軒・脇本陣1軒・問屋2軒、人馬継問屋2軒で旅籠は21軒(大3・中4・小14)と、家数の割りに旅籠の数が多いことが分かりま
す。木曽路3本の指に入る宿場町であるとなりの薮原宿の旅籠数がわずかに10軒である事に対して宮ノ越宿の旅籠の数が多い訳は、耕作地に恵まれていた事がその理由ではないかと思われます。奈良井宿と平沢同様に薮原宿をサポートしていたのが宮ノ越宿だったのではないでしょうか。
この宮ノ越宿からは伊那へと通じる「権兵衛街道」が別れていました。
国道19号線がJR中央本線を越えた、離れた場所をバイパスした為に、旧街道筋には静寂が守られています。しかし宿場町は明治16年(1883)の大火で全焼。宿場に南半分にわずかに面影を残す程度です。本陣跡付近の道路は広く、道の山側に水路が流れそのせせらぎが心地よいのですが、この水路はもともとは道の中央にあって、道路整備によって道の端に移されたものではないかと推測します。
往時を偲ばせる家並みが終わりになるあたりに、復元保存されている元旅籠の「田中家」があり、その少し先に「明治天皇御膳水」と書かれた井戸があります。 江戸末期に掘られたとされるこの井戸は近郷随一の名水と言われ、宮ノ越に立ち寄った明治天皇にこの水で献茶が行われたといいます。 |
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元旅籠を復元した田中家住宅(右) |
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「明治天皇御膳水」と書かれた井戸 |
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出梁造りの旅籠建築がわずかに残る |
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