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  本山
もとやま
 木曽路への入口中山道三十二次之宿場町
 長野県塩尻市宗賀本山
 構成:切妻平入・出梁造民家(旅籠建築) ■ 駐車場:なし
 
 

塩尻から数えて2つ目の宿場町である本山宿は、現在国道19号線がバイパスし、旧道沿いに宿場町を偲ばせる町並みが今も色濃く残されています。地名としては宗賀本山といいますが、この宗賀という冠称は、もともと平安期にこの一帯を崇賀郷といったのに始まり、明治7年に日出山村・本山町村・牧野村・洗馬町村・床尾村・平出村が合併して宗賀村が成立。その後塩尻市と合併して継承された由来を持ちます。

史跡としては、同じく中山道木曽路最大の町並みを誇る、奈良井宿に次ぐ規模であったといわれていますが、今や閑散とした虫食い状態で、さらに中央を走る二車線の道の広さとセンターラインがその風情を著しく損なっています。この道の広さは拡張したものでは無く、当時からそのままの幅だそうで、おそらく宿場町当時には、この道の中央に水路が流れていたのではないかと思われます。

宿場の規模としては 本陣1軒、脇本陣1軒、問屋2軒に旅篭屋34軒があり、本陣は小林家が下問屋と兼務して勤めました。今は明治天皇の巡行碑がその場所を示しています。一方の脇本陣は花村家が上問屋と兼ねて勤め、その跡地は現在本山公民館となっています。

出梁造りの建物そのものの大きさは、奈良井宿のそれよりはるかに大なもので、集落の中央付近には数軒が軒を連ねています。カーブした街道に沿ってノコギリの歯のように立ち並ぶ風景は、中世の城下町を思わせ、家並みに立体感と奥行きを与えています。
各戸の表には往時の屋号の表札を掲げ、現在残された文化的遺産を大切に保存しようという試みが行われていました。

本山宿の歴史を軽く追っていくと、関ヶ原の戦い後に天下を手中に収めた家康は、江戸を中心とした五街道を整備しました。初期の中山道は諏訪から先、三沢(岡谷市)、小野(塩尻市・辰野町)を経由し牛首峠を越えて木曽路の桜沢に至る最短距離で整備されていましたが、後に下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻、洗馬、本山の三宿を経て木曽に至る道筋に変更されます。隣りの洗馬宿は善光寺街道との追分宿として栄え、松本藩領の最南端に位置するこの本山宿には、松本藩口留番所が宿の京寄り(南)に置かれて街道を監視していました。