中山道の整備にともなって成立した長久保宿(長窪宿)は、当初西方段丘下の依田川沿いの下河原ありましたが、水害で押し流され現在の場所へ移転しました。
町並みは宿の中央で直角に折れ曲がり、笠取峠へ向かって登る坂道に形成された堅町と平地を南に延びる横町からなります。堅町には本陣・脇本陣・問屋などが集中し、やがて宿場の規模が拡大するに伴って横町に広がっていきました。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒、問屋場は2軒が交代制で運営され、旅籠の数が中山道筋では下諏訪宿に次いで多い宿場でした。
東は笠取峠を控え、南は中山道と上田から大門峠を越えて茅野へ至る大門街道の追分け宿であった為と思われます。
古代東山道もこの地域を通り、戦国期には松本と佐久を結ぶ大内道と諏訪へ通じる諏訪道(大門道)が交差する軍事的・政治的にも重要な要衝であり、すでにこの時期には宿場の機能が作られていました。
現在長久保宿の町並みで一番目に付く真新しい旅籠建築が「一福処濱屋」と呼ばれる長久保宿歴史資料館です。建物は明治初期に旅籠として建てられたものですが、交通量の減少により開業されずにいました。間口9間・総2階建て出桁造りで宿内ではかなり大きな建物です。
この斜向かいに建つ旧本陣石合家は一部江戸初期の原型が残り、中山道本陣中最古の貴重な建築といわれています。
その並びに建つ旧酒蔵の竹内家もまた本卯建に独特な様式の造りが目を引く建築で江戸時代前期に建てられたものといいます。長久保宿は連続性はありませんが、伝統的な建物が良い状態で多く残されていました。
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