長野市は長野県の県都ですが、長野善光寺はさらにその中心とも言えます。「信濃の道はすべて善光寺を目指す」と言われますが、実際、信州長野へ至る諸街道は、それぞれ名称があったものの、大半は通称「善光寺街道」と呼ばれていました。
善光寺は全国にもまれな2つの宗派をもつ寺院で、住職(現在は寺務局長)は天台宗と浄土宗の僧が2年交替で勤めます。このような事から善光寺は古くより宗派にこだわらず、また女性や身分に関係なく全ての人々を受け入れた「庶民の寺院」として発展します。門前には46もの宿坊があり、他に30軒の旅籠と25軒の木賃宿があり、その他商家も多く門前町というよりは商都と化していたようです。区分上は長野村の中にあったものの、善光寺町として独立し独自の行政体制を有していました。
善光寺は鎌倉期以前よりその名がある古い歴史をもつ寺院で、この時期の信濃国内の道はほとんどが善光寺道と呼ばれていました。しかし戦国期の争乱で甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信によって多くの諸仏や宝物がおのおのの国へ持ち去られ、寺は荒廃します。
甲府善光寺に移されていた本尊は武田氏滅亡後に豊臣秀吉が預り、京都方広寺の本尊としますが、慶長3(1598)年に善光寺に返され、これによって善光寺は再び活況を取り戻したのです。
現在も長野県は大きく北信と南信に分けられますが、それぞれの政治行政の中心地は南信が城下町松本、北信が城下町松代と天領支配の陣屋が置かれた中野でした。しかし明治の廃藩置県政策の中で中野陣屋が県庁となり、ここに中野県が成立します。これには政治的な思惑もあったと思われますが、不運にも明治初頭に起きた中野争乱で中野の町は焼け野原となり、代替地として小さな農村と門前町にすぎない「長野村」が県都に選ばれ、ここに「長野県」という名が生まれたのです。10万石の城下町・松代も県庁誘致に動きましたが、願いは叶いませんでした。
将来の発展、そして新しい県都建設を考えた場合、すでに近世城下町の町割りが完成している松代よりも、農村地帯であった長野を選んだ事は先見の明があったのかも知れません。そのあたりは、南信の中心都市である松本や他の地域の城下町をベースとした県都の都市計画の苦労を見ると明らかです。
しかし、この事に多くの信州人は納得せず、いまでも「信州」という名称が多く使われる原因の一つになったといいます。
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