現在は阿智村と合併した旧浪合村は、岐阜県に接する南信南端の村で、木曽山脈・下条山脈・蛇峠山系などに周囲を囲まれた、人口600人ほどの小さな村でした。村域の実に97%以上が山林であり、浪合川沿いの僅かな傾斜地に集落と中心部があります。
この集落が江戸期まで伊那街道(三州街道)の宿場町でした。三州街道は古くは三河道と呼ばれ、内陸信濃と東海道を結ぶ「塩の道」であり、戦国期には武田信玄が軍事的な要衝として浪合関所(浪合口番所)を置いています
江戸期における三州街道・伊那16宿のなかで「宿」と名付けられたのは飯田伊北の4宿だけでした。藩主の参勤交代も役人の通行も無い、飯田以南の街道は公的な宿駅の性格は薄く、自然発生に宿場町が形成されていったようです。それでも浪合宿は伝馬宿としての機能が設けられ、民間の物資輸送・中馬の宿場町として2つの性格を持っていました。江戸中期から中馬輸送が盛んになると、耕地に恵まれない浪合村の百姓は牛馬の飼育を副業にしていきます。さらに村内の95戸のうち約50戸が街道沿いに町並みを形成して宿場町の様相を呈していました。
明治になっても宿場問屋と共に宿場制度は廃止されましたが、伝馬所が設けられ宿場の機能は維持されました。問屋に変わって人馬継立陸運会社3社が設立され中馬輸送を引き継ぎますが、大正期ごろから街道が整備されて自動車輸送にシフトし、中馬制度や馬稼ぎは姿を消していく事となります。
中心集落と役場など行政機能は和地野川沿いに集まり、数戸の民家が軒を連ねます。現在その様子は宿場町というよりは、清流の里といった印象を受ける静かな集落です。
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