分岐点をさす「追分」という地名は牛馬を左右に追い分けた事に由来するといいます。全国に追分けという地名が全国に見られますが、最初にこの地名が生まれたのはここ信濃追分だそうです。
追分宿は中山道と北国街道の分岐点であり、下仁田街道(姫街道)をはじめ、入山道、大笹道、日影新道などの中馬道があつまる交通の要衝として、この地域の宿場町の中ではもっとも賑わいました。
宿の内訳は問屋を兼ねた本陣1軒・脇本陣3軒・旅籠35軒。この中で茶屋や旅籠屋のほとんどが飯盛女を抱えていたため、町は男よりも女が遙かに多く、宿全体が歓楽街と化していたと言われています。
しかし、明治になって鉄道が開通すると宿は急速に衰退。旅籠の多くは廃業か岩村田へ移転していきます。
現在、追分に繁栄せしころの面影はありません。数軒の旅籠建築が宿の中央付近と西の桝形付近に残っていますが、仕舞屋となっています。
かつての脇本陣跡には旅籠「油屋」が新築され旅館を営んでいます。
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