佐渡南部に位置する中規模の港町・赤泊は、本州との最短距離にあるため、古くから佐渡の南の玄関口として栄えた歴史の古い港町であり、現在も対岸の寺泊との間にフェリーが定期運行しています。また鎌倉時代に流罪を許された日蓮が佐渡を発った港でもあります。
地名の由来は、港の入口に赤岩があたっとも、アイヌ語の「赤」は「水」、「泊」は「港」をさすなど諸説があります。
赤泊は歴史の古い港町ではありますが、大型船が入港できないなどの制約で、旅客輸送や沿岸交通が主で江戸時代になるまで、それほど主要な港町ではありませんでした。
慶長9年、佐渡代官に大久保長安が就任すると、相川の金山開発の周辺整備事業として赤泊も整備され代官所も置かれました。また荷物の徴税業務を代行する番所付き五人問屋(菊屋・大屋・淡路屋・二階屋・石塚屋)が取り立てられ、幕末まで商取引の中心となります。
相川から運び出された御用金は、はじめ小木港から積み出されていましたが、享保年間ごろからは移送コスト削減の為に、最短距離である赤泊に変更。同じく赤泊街道も整備。さらに対岸の寺泊から江戸へのルートも信州経由の北国街道から最短の三国街道へと変更になったのもこの時です。
しかし明治以降の近代化の中で、港と佐渡の主要地域を結ぶ道は悪路のために連絡が悪く、また対岸の寺泊にしても鉄道との連絡が悪いために、港の限界となります。以降は両津が佐渡の玄関口として集中的に整備されていきました。
赤泊の住人は
「松前稼ぎ」と呼ばれる北海道への出稼ぎに活路を求めて行きますが、これが赤泊の財力を生むことになり、政治力によって道路整備や寺泊との定期フェリーを実現させていく事になります。それらの事業を行った政治家の一人、田辺九朗平の邸宅である「旧・田辺邸」が、赤泊の町並みの中心付近に立つ、屋根の上に八角形の望楼を載せた擬洋風の建物で、明治30年代の建築だといいます。
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