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  右左口
うばぐち
 駿河からの海産物輸送で栄えた中道往還の宿場町
 山梨県東八代郡中道町右左口(宿) 【山梨県甲府市】2006年合併

 構成:古民家土蔵 ■ 駐車場:なし
 
 

「右左口」を読めるだろうか。「うさぐち?」。古くは姥口または祖母口とも書き「うばぐち」と読みます。甲府盆地の南部、御坂山の北面に沿って南北に延びる曽根丘陵上に形成された集落で、甲斐と駿河を結ぶ中道往還の宿場町として栄えた場所でした。中道往還は別名右左口道とも呼ばれ、この宿場町の重要さが伺えます。

この往還は武田氏時代からの重要な街道で戦国期からすでに宿場町が形成されていました。その後徳川家康によって近世街道に改修され、伝馬が整備されます。
公用通行が少なかった為に伝馬役の数は甲州街道にくらべると僅か2人に馬2頭であったものの、人馬継立ての諸業務は本街道と変わりませんでした。宿の責任者である問屋・年寄は名主が、長百姓・百姓代などが村役人を兼帯。
山間部に位置するために耕地に乏しかったものの、右左口の住民は徳川家康から特権を与えられ、駿州から甲斐に持ち込まれる塩や海産物で生計を立てました。
これは家康のの甲斐入国の際に村民が献身的に奉仕した功労として、関所の通行や諸商売・運送などを免税とする朱印状が与えらた為で、甲斐と駿河を結ぶ最短路である中道往還の右左口宿は大いに繁栄しました。しかし江戸時代に入り大久保長安によって富士川舟運が開発されると中道往還の利用は激減。さらに明治を迎えると相次ぐ鉄道の開通によって宿場町の歴史に終止符が打たれました。
旧中道往還は車両通行困難な林道であった為に、麓集落である右左口の開発は進まず、昭和48年に甲府精進湖有料道路(現在無料)の国道358号線が開通しましたが、集落を遙かに迂回した為、宿場町の面影を残す家並みが残されたようです。