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喜連川は(きつれがわ)と読み古くは狐川(きつねがわ)と呼ばれていました。
宇都宮氏の支族である塩谷氏がこの地に喜連川城(倉カ崎城)を築いた際、荒川と内川の連なる様子からこの地を喜連川に改めたと言われています。というわけで「喜連川」という名の川は存在しません。
天正18年、豊臣秀吉は足利氏古河公方の断絶を哀れみ、上総で埋もれていた足利国朝に古河公方の家を継がせ喜連川3500石を与えました。そしてこの時より足利国朝は喜連川氏を名乗ります。江戸時代に入っても喜連川氏はわずか5000石でありながら、10万石の大名と同じ格式を与えられ、参勤交代の義務も免除されるなど特権的に優遇されていました。
天下を取った徳川家康は公家を通じて家系図の改ざんを行うなど、自らを源氏の流れを組む血筋としました。そのため家康は源氏の名流、各地に散らばって衰退した足利一門を見つけ出しては「高家」として保護したのです。幕末まで喜連川足利氏は喜連川氏を名乗っていましたが、明治に入り本姓の足利に戻して領地を明治政府に奉還します。
喜連川の町並みは本町の裏手に武家屋敷の遺構が残っていますが、やはり奥州街道の宿場町として栄えた本町の表通りには土蔵作りの商家が仲町、台町に残されていました。
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