古代律令時代に北陸の大国「越の国」が越後・越中・越前に3分割されると、武生の地に国府や国分寺が置かれ越前の中心となりました。現在の京町1丁目にある総社大神宮は、10世紀ごろ越前国内の神祇を一箇所に勧請して祭祀したものです。
しかし、鎌倉期ごろから武士の力が強まり始めると国衙の衰退と共に、「武生」は「府中」と改められます。武生の名が再び現れるのは、長い時を経て明治になってからの事。しかし、平成の大合併でその名は再び失われました。
戦国期に織田信長の家臣で後の加賀100万石の祖である前田利家が初めて大名として封じられたのがこの府中(武生)でした。
関ヶ原の戦い後の慶長6年、越前松平家の祖である結城秀康が入封し、北の庄(後の福井)に城下町を建設します。府中には福井藩家老の本多富正が入り、今に残る城下町の整備が行われました。一国一城令がある為に天守閣は無く2階建ての陣屋が置かれ、その場所は現在の武生市役所付近にありました。
北国街道が通過する府中は早い時期から各種手工業品や農産物、鉱山物の集散地であり、城下町、宿場町、門前町として栄えていきました。
武生の打刃物産業の歴史は古く、南北朝期ごろにはすでに刀鍛冶が活躍していたと言われています。その技術は農鍛冶や刃物にも広く引き継がれ、数々の流派が現在にも伝えられています。
城下町武生の町並みは明治以降にこの町を襲った幾度もの大火災によって、その多くが失われてしまいましたが、
元町・京町など町の中心付近に本卯建の重厚な商家建築が見られます。
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