加賀市は福井県と接する石川県加賀地方最南端の都市ですが、昭和の市町村合併で旧国名を名乗っているものの、人口はわずか6万5000人の小都市です。しかし市の中心となった大聖寺は、江戸期に加賀100万石の支藩である大聖寺藩の城下町(陣屋町)でした。この項では大聖寺藩が陣屋ながらも城主格を得ていたので城下町とします。
寛永16年(1639)加賀藩三代藩主・前田利常が隠居して小松城へ入り、現在の小松の礎を築いたのですが、この時次男・利次に富山10万石、三男利治に大聖寺7万石を分封して富山藩と大聖寺藩が立藩されました。町は大聖寺川と熊坂川に挟まれた天然の要害に形成されます。二代藩主利明の時代に藩の体制が整いますが、小藩の宿命でもある慢性的な財政赤字に加え、幕府の度重なる御手伝い普請(請負者負担の公共工事)の要請と大藩の支藩である事のプライドが重なり、よりいっそう財政を悪化させていました。
さらに九代藩主利之は、わざわざ幕府へ10万石への高直しを願い出て、宗家加賀藩からの援助にてなんとか10万石の待遇を得ることに成功しますが、この格式の昇進に従って出費も増え、藩財政をより一層圧迫しました。
この高直しも江戸城の大広間詰めの大名中10万石以下は大聖寺藩だけで、さらに参勤交代の帰国の際に上使の挨拶を派遣されないのも自分一人であったことを苦にした対面上のものだったといいます。
何度か財政再建政策が試みられるものの、焼け石に水であり、さらに幾度も城下を焼き尽くす大火からの復興により藩の財政は泥沼に。多くの藩主がキレて乱心、奔放するに至り、宗藩からは見捨てられ、十一代藩主利平はこの10万石の格式を返上しようと願いでる始末。宗家の支援が打ち切られたとなっては、家中からの借り上げや町人からの強制的な御用金、各地の豪商からの借銀などにより、なんとか持ちこたえていきます。
廻船業で富を築いた橋立や瀬越・塩屋の豪商などが名字帯刀を赦され士分格を得ていたのも、藩財政に貢献した見返りでした。もはや藩には「名誉」しか質入れできるものがなかったのです。
現在の大聖寺の町並は路地が碁盤の目に区画され、本町・魚町・京町・鍛冶町・鉄砲町などを初めとする数多くの城下町らしい旧町名が残されています。大聖寺藩の陣屋跡には現在錦城小学校が建ち、その隣りの江沼神社の境内の川の畔には三代藩主前田利直公が築造した茶室「長流亭」がいまも残ります。そしてこのあたりには、鶴が舞い降りる森があり、とにかくのどかな町でした。 |