七尾市の北西、能登有数の温泉地である和倉温泉に隣接する田鶴浜町は、江戸期より今に至る伝統工芸・田鶴浜建具の生産地として知られています。
田鶴浜建具の起源は慶安3年(1650)、加賀前田家の与力であった長連頼が祖父連竜の菩提寺である花渓寺(後の東嶺寺)を改築した際、これに従事した尾張の指物師によって木工の技術が伝えられたと言われています。明治に入ると建具業組合が設置され、鉄道の開通により販路は全国に拡大してその名を広めました。
この田鶴浜建具のきかっけを作った長氏は、前田家の家臣では無く、加賀藩の与力大名として特別の地位を有し、加賀藩からは独立した治外法権の領地がありました
。その領地は鹿島郡の半分にあたり、田鶴浜は長氏の本拠地として栄えた城下町に始まります。
この長氏と前田家の特異な関係は、戦国時代に前田利家が能登一国を与えられる以前から、能登の武将であった長連龍が織田信長から領地を与えられていた事に始まります。しかし、いかなる歴史があるとはいえ、藩内に独立国のような地域があることは前田家にとっては、好ましいものではありませんでした。後に長氏の重臣による権力闘争によるお家騒動が引き起こると、ここぞとばかりに加賀藩は騒動の鎮圧の為に介入、長氏は前田家の一家臣に組み込まれ旧領は藩に収容されてしまいます。
江戸期の田鶴浜には内浦街道の馬継所が置かれ、幕末期には能州口郡御塩奉行・山奉行を兼務する所口代官所が所口(七尾)より移転し、田鶴浜は鹿島郡の行政の中心地として栄えます。
しかし現在の田鶴浜は濃厚地帯のなかにぽっつと形成された街村的な様相を呈し、藩政時代における行政の中心地という面影はまるでありません。
かつて藩より禁じられていた七尾街道のバイパスである西往来の良川へ通じる田鶴浜街道(主要地方道志賀田鶴浜線)沿いに、わずかながら往時を偲ばせる家並みが残されていました。
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