富山湾の東岸に位置する滑川市。全国区に知られる魚津市や黒部市に隣接していて、その影は薄いものの、かつては北国街道の宿場町としてこの地域で最も栄えた町であり、今もホタルイカの水揚げではそこそこ知られています。
古くは京の寺院(祇園社)の荘園であり、中世には「滑河」の名が見られますが、このころは古代官道・北陸道を引き継いだ街道沿いの街村に過ぎなかったようです。
江戸時代に近代北国街道が整備され、滑川は加賀藩によって宿場町に指定されます。
中世よりあった、滑川で最も古い大町に御旅屋(おはたや)が置かれ、滑川本陣となります。現在の本陣公園がその場所です。滑川の繁栄は、中世から形成されていた大町と狭町(現瀬羽町)にはじまり、荒町(新町)、中町、神明町と街道沿いに徐々に町場が拡大、寺町の形成によって町場がさらに拡大していき、中川(晒屋川さらしやがわ)を境に東西に翼を伸ばしていきます。
中川の西側の瀬羽町は滑川で最も賑わった繁華地。一方中川東側の荒町が近年まで滑川町の中心地。その南側の寺家町へ通じる馬町小路・七間小路などせまい道が今も数多く残り、歴史小路として案内する表示が数多くあります。
さらに宿場町だけでなく、年貢米の集積地として加賀藩の藩蔵が置かれ、有力商人が蔵宿を勤めており、元禄年間の蔵宿は本陣を含め8軒もあったといいます。
以後滑川は、後背農村地域(新川平野)の物資集散地と宿場町、市場町と港町・漁村の機能を併せ持った多機能都市へと発展。同じ頃、富山藩内で急速に広まった「富山の薬売り」でしられる越中売薬はこの滑川宿においても売薬主30軒と行商人は148人を数えたことからも、富山有数の町であったことが伺えます。
元禄2年夏には松尾芭蕉が「奥の細道」機構の折、滑川宿に宿泊してやや町の知名度アップに貢献。
しかし、現在は駅前地区を含め、かつての場所に往時を偲ばせる喧噪は無く、家並みもただ静かに朽ち果てるのを待つばかりの状況である事に、ただならぬ寂しさを感じます。
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