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旧東海道の遺構として知られ国の天然記念物にも指定されている「御油の松並木」。街道の両側におよそ600mにわたって松並木が続きます。この御油は東海道53次の宿場町でもあり、わずかですが往時の町並みが残されています。
慶長6年に東海道の宿駅制が施行され、この御油宿(五位宿)はとなりの赤坂宿とともに2駅で1駅分の業務を分担するように命じられました。これは2つの宿がわずか16町(約1.6km)と距離が短く、助郷への負担を軽減する為だと思われます。人馬次ぎ立ての業務は上りと下りでそれぞれ分担を受け持ち合いました。本陣4軒、脇本陣なし、問屋場1カ所、旅篭屋62軒。御油宿は東海道の脇往還でもある姫街道(本坂街道)が分岐する追分け宿としても賑わいました。旅籠屋の大半は飯盛女を抱え、隣りの赤坂宿とともに遊興の宿場町として栄えたといい、当時の俗謡でも「御油に赤坂・吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」と謡われてます。
御油の町並みは住民の生活道路となっている県道永沢国府線とそれに併走する細い路地(おそらくこちらが旧道)沿いに宿場町を偲ばせる旅籠様式の町家が連なっています。となりの赤坂が町ぐるみで「東海道赤坂宿」を盛り立てているのに対し、この御油ではそのような活動は一切見られませんでした。訪れた時、町並みの中心に建つ建物が引越作業中でした。引越というよりも大がかりな粗大ゴミの撤去といった感じであり、建物が取り壊されるのか、保存修築に為の一時退去なのかは不明ですが、虫食い状態に空き地が目立つ町並みを歩いていると、不安がよぎりました。
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御油宿の南端には商家建築が軒を連ねています |
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