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堤町の町並み
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起は古くから”小越の渡し場”として軍事的にも重要な地であり、関ヶ原の戦いでは岐阜攻めを行った東軍福島政則の木曽川渡河に尽力した加藤家がその後、起宿発足のに伴って本陣に命じられています。
美濃路は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康がこの街道を凱旋したために、別名「吉例街道」とも称され、いち早く整備が行われました。美濃路の宿駅制が東海道宿駅制度施行の前年に行われている事かも、この街道が江戸幕府にとっていかに軍事的にも重要な意味を持っていたかが伺えます。
起宿は本陣・脇本陣各1軒、問屋2軒の他、尾張藩管轄下の船問屋が置かれました。この船問屋は脇本陣も兼務する家柄で、朝鮮通信使や将軍上洛の際には木曽川一帯から300隻近い船を動員して船橋を架橋したといいます。旅籠の数は22軒で、東海道に比べるとあまり多くはありませんが、美濃路では最大規模の宿場町でした。これは起宿から大垣城下までの間に木曽川、長良川、揖斐川と3つの渡しがあり、一旦川留めになるとその滞留者の数が相当数にのぼったからでした。
明和年間(1764〜)に京都西陣から伝えられた織物は、やがて尾張を代表する”尾西織物”へと発達していきます。これが尾西市の地名の由来となり、起は織物工場の町として戦前まで続きます。
起には現在も堤防に沿って往時を偲ばせる町並みが残されています。起宿のランドマークである下町の歴史民俗資料館は脇本陣の建物を利用したもので、旧街道は堤防の沿って北上します。旧称堤町に入ると緩やかな坂道に沿って町場が高い位置に形成されていきます。この堤町が長く木曽川の渡し場であり、昭和の時代まで渡し舟が行われていたそうです。旧脇本陣のある下町から堤町にかけて、当初予想していた以上に古い町並みが残されていました。
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下町の旧脇本陣近くに残る商家建築 |
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