刃物の町と知られる関市。現在は金属産業の下請け中心の二重構造に加え、海外からの安い輸入製品におされ、歴史の古い刃物生産は衰退し、自動車部品への転換が進んでいます。それでも、刃物の町・関が生んだ企業には、カミソリで知られるフェザーや貝印など世界的な刃物企業が今も活躍しています。
関の地名はその字が示すように「関所」が由来といいますが、いつの時代のどの関所かは定かではありません。
関は古くから中濃地域の物資集散、長良川水運、飛騨街道、郡上街道などが交差する交通の要衝として発展ていました。しかしそんな関の町は軍事上の要地でもありそうですが、江戸期の数年間に大島光義が1万8000石存続した以外には、特に主だった城下町の歴史は無いようです。それでも関の町は城山になりそうな安桜山を中心に、城下町に似た町割りや旧町名が存在し、170あまりの区画からなる町があります。
刀都としてのはじまりは、弘長元年(1261)この地で良好な焼刃土が発見されたことによるといいます。その後、関の刀鍛冶は南北朝期に大きく発展し、多くの名匠・流派を生みだしました。これら刀の生産は室町期が最盛期で、関は「千軒鍛冶屋」と呼ばれていました。慶長年間には168軒、172人の刀工が技を競っています。やがて江戸時代の太平の世が訪れると、関の刃物産業は生活道具の製造にシフトしていきました。
刃都として、また中農地域の中核都市である関市の町は、碁盤の目のように町並みや古い町名が今も残りますが、残念ながら伝統的な建物はほとんど見る頃ができませんでした。それでも、所々に美濃らしい建築様式の家々を見ることができます。
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