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  高須
たかす
 輪中の石垣集落・高須藩3万石の陣屋町
 岐阜県海津郡海津町高須町・高須 【岐阜県海津市海津町高須町】2005年合併

 構成:商家・石垣民家 ■ 駐車場:なし
 
 

海津町は愛知県と三重県に食い込むように突き出た岐阜県最南端の町。揖斐川、木曽川、長良川の木曽三川に挟まれたデルタ上の町で、町域の大部分は海抜の低い輪中地帯です。
海津町の中心部、高須の商店街は高台に形成されていますが、平地に建つ民家や寺院は水害に備えて1mから2mほど敷地を高い石垣を築いているのが特徴です。

高須は江戸時代徳川御三家の一つ、尾張徳川家の支藩として松平義行が3万石で入封して以来、明治まで14代続いた陣屋町でした。

関ヶ原の戦いで高須城を攻め取った徳永寿昌(ながまさ)がその軍功として高須
5万石を与えられ高須藩が成立します。しかし徳永氏は2代藩主の不祥事で改易。
続いて下総関宿から小笠原貞信が2万2000石で入封しますが、あまりの水害の多さに、転封を嘆願し願いかなって越前勝山へ移る事に。城下町はこの小笠原氏の時代に形作られ、4と9の日に六斎市が開かれるなど、高須の基礎がつくられます。

江戸時代初期に、尾張藩は大規模な堤防建設や木曽三河の支流の閉鎖など、いわゆる「お囲堤」によって、領内を水害から守りましたが、逆に美濃側の水害は増大してしまいます。「十年一作」つまり十年に一年水害の無い年があれば良しといわれる具合です。

木曽三川治水事業は幾度も行われ続けましたが、なかでも、宝暦3年(1753)から5年の歳月をかけて、薩摩藩によって行われた御手伝普請の悲話は、長く語られ続けています。(宝暦治水事件)

高須は一旦幕府領となったのち、尾張徳川家から分家した松平義行が3万石で入封、 尾張徳川家連枝の高須藩が成立しました。高須藩は尾張藩からの分知ではなく、幕府から与えられた藩であるので、正確には尾張藩の支藩ではありませんが、家老をはじめ藩の重職は尾張藩からの出向であり、藩主もまた尾張藩から養子を向かえたり、逆に宗藩へ何人もの藩主を輩出したりと、両藩は非常に関係が深いものでした。

高須の町の知名度は低いものの、高須松平家は”高須四兄弟”と呼ばれる、幕末動乱期の主要キャストを輩出しています。藩内の佐幕派を粛正し尾張藩を新政府側に方向転換させた17代藩主徳川慶勝、一橋家を継ぎ、徳川家の総代として明治新政府と交渉にあたった徳川茂徳、そして最後まで幕府軍として新政府軍と戦い続けた、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬です。4人は幕末を生き残り、再び元の家族に戻りました。