古くは”海塚”と書かれた貝塚の町は、泉州における代表的な港町であり、一向宗の拠点・貝塚御坊の寺内町として発達しました。
貝塚寺内町は室町時代に無住であった草庵に紀州根来から右京坊了珍(後の卜半斎了珍)を迎え貝塚御坊願泉寺を興したのに始まります。(ト半・ぼくはん)
のちに石山本願寺の寺内に認められ、寺内町の有力豪商佐郷屋や誉田屋が町年寄として寺内町の運営を行いました。
やがて戦乱の時代になり、各地で一向宗による反乱が起きる中、貝塚は石山本願寺の支城を担った為に織田信長によって攻められ焦土と化します。
その後、卜半斎了珍によって町は再建され、秀吉や家康の時代には再び寺内として公認されます。
天正11年(1583)和歌山にあった本願寺が大阪天満に移転する際、一時的にこの貝塚に本願寺御坊が置かれると貝塚の地位が高まることとなりました。
やがて二代ト半了閑は寺内町の私領化を目指します。これに対し住民は反対し幕府に訴えでますが却下され、家康はこれを承認、願泉寺には「卜半役所」が置かれ貝塚は寺内町から城下町に似た町へと整備されていきました。これには、家康が貝塚に大阪城攻めの支城的な役割を担わせる思惑があったと言われています。
紀州街道と港町を有する貝塚は宿場町や物資の集散地、在郷町へと発展していくなかで多くの豪商を輩出していきます。
現在、 願泉寺裏手の貝塚北小学校周辺には、廻船業や近木節などの水産加工品、鋳物鋳造などで財を成した豪商の屋敷が古い街並みとして残されています。
多くの建物が文化財として登録を受けているものの、ほぼ全て人が住んでいる生きた街並みです。
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