東海道と中山道が分岐する追分け宿として通常の宿場町の2倍の規模を誇った草津宿。最盛期には本陣2軒、脇本陣4軒、問屋4軒に180軒近くの旅籠や商家が軒を連ねていました。しかし『宿村大概帳』によると草津宿の全長は近江の宿駅の中では最も短く、その密集ぶりは想像を超え、宿内の道は狭く通行に難儀したと言われています。
古代岡田駅に始まり中世には野路駅が置かれ、東海道と東山道の分岐点として古くより栄えていましたが、関ヶ原の戦い後に家康は東海道と中山道及び宿場町の整備を行いました。その後大阪冬の陣に備えて、膳所藩によって草津宿の拡大整備が行われます。合わせ軍営の際の宿泊支援の為に寺院があつめられて寺町が形成されています。
草津宿にあった2軒の本陣は田中九蔵と田中七左衛門が務めました。田中九蔵本陣は早くに取り壊されてしまいましたが、田中七左衛門本陣だけは往時の姿のままで現存しています。田中七左衛門家は本陣職のかたわら材木商を営み、「木屋本陣」といわれ、寛永2年から明治3年まで実に246年間本陣職を務めました。
東海道草津宿本陣が現存する町として、かなり期待を膨らませて訪れたのですが、
都市化が進んだ商店街の一画に「本陣」のみが大切に保存されている状況で、残念ながら往時を偲ばせる街並みは見られず、所々に伝統的な建物が佇んでるだけでした。この草津宿から京方面に向かった街道筋の矢倉には伝統的な商家建築の家並みが残されていました。
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