琵琶湖の南端に注ぎ込む瀬田川は、古くから琵琶湖と京都・上方、さらに奈良と北陸諸国を結ぶ交通路であり。奈良時代には東大寺造営の用材もこの瀬田川で漕運されたといいます。瀬田川の西岸は石山津とよばれて、奈良時代には奈良の外港として重要な港町だったのです。
瀬田という地名は古来より、勢多・勢田・世多などさまざまな表記が長く併用して使われ続けていましたが、明治22年にようやく”瀬田”に統一されます。
古代の勢多郷は近江国府の所在地、また東海道・東山道両道が通る事からも国内最大の大駅である勢田駅が置かれていたといいます。
中世より多くの歌の歌枕として詠まれてきた瀬田橋。(勢田橋とも)大橋・小橋と合わせて全長約223km。橋の上から見る風景の美しさ、とくに「瀬田の夕照」は近江八景の一つに数えら、京都の山崎橋・宇治橋と共に日本三大橋と称されています。
しかしこの橋、京や幾内へ通じる軍事上の要地でもあった為に、戦乱の際にはルートを寸断する為に、たびたび焼き払われていました。そしてその都度、瀬田橋は架け替えられたのですが、その場所は時代によって移動していて、現在の場所では必ずしも同じではありませんでした。
現在瀬田の唐橋の前後、旧東海道筋に古い町並みが見られます。東海道の大津宿・さらには膳所藩の城下へと通じる事から、正式な宿場町ではありませんでしたが、それに準じる街道町として発展していったようで、当時から町場としては公認されていました。
瀬田の唐橋と呼ばれ始めた時期は定かではなく、橋の形によるものと思われる俗称ですが、やがてそれが定着して地名にもなります。瀬田唐橋の西側の唐橋町は、昭和42年までは石山鳥居川を冠していた各町が改称したものです。
琵琶湖はまた自転車乗りの聖地の一つで、琵琶湖を1周するサイクリングコースの終起点がこの瀬田唐橋なのです。コースの途中にはこの瀬田唐橋を起点としたキロポストが設置されています。
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