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紀伊清水
きい しみず
 紀ノ川南詰・高野街道の宿場町
 和歌山県橋本市清水
厨子二階古民家・伝統様式民家・土蔵  なし 南海電鉄高野線・紀伊清水駅
 
 
戦国期後半、豊臣秀吉による紀州攻めによって多くの寺社が焼き払われた頃、高野山攻略の前に秀吉と和議を結び、さらにその後秀吉に最も信頼される高僧となった高野山中興の僧・木喰応其(もくじきおうご)は秀吉から自身の領地に町を立てる事を許され、高野山参詣の便の為に紀ノ川に130間(約324m)の橋を架けます。その北詰に建設された町が橋本町と呼ばれるようになりました。そして南詰の町が清水町です。

紀ノ川に架けられた大橋は、わずか年後に流失し、以後は舟渡で結ばれるようになります。
この渡しは「無銭横渡」と呼ばれ、現在も紀ノ川南岸の賢堂三軒茶屋に渡し場を示す常夜灯が2基現存します。また高野山参道には旅人の道中の安全を守るために六つの地蔵が祀られ清水には第一の地蔵堂も残されています。

清水町は江戸期に高野街道の伝馬所に指定され発展しますが、対岸の橋本や東家も伝馬所であった為に何度も係争が起きていました。江戸期の清水町の家数は165軒、人口は約657人でしたが、紀州藩の記録には200軒近い商家や旅籠が軒を連ねる町だったといいます。
しかし、明治に入り南海電鉄が高野山へ直通列車を開通させると、清水の町は対岸の橋本と共に衰退していく事になります。それでも橋本の方は大坂圏と鉄道で結ばれた為に、通勤圏と成り大坂の衛星都市的な位置づけで発展していくのですが、この清水地区は完全に取り残された形となりました。

現在、清水地区には旅籠や商家を思わせる建物は見られず、伝統的な家々が連なるものの、街村の形態を残す農村集落の様相です。しかし大庄屋を務めた萱野家は健在で旧家らしい佇まいを残しています。
 
 
 
 
賢堂三軒茶屋の常夜灯