和歌山市と橋本市のちょうど中間に位置する粉河町は西国三十三ヶ所第3札所・粉河寺の門前町として発展した町で、大和街道と根来街道の交差する交通の要衝でもありました。この粉河寺は奈良時代の宝亀元年(770)の創建と伝えられている和歌山県有数の名刹です。
平安時代ころから観音の霊場として信仰をあつめ、藤原氏一族が高野山とのセットで参詣を始めたことから、貴族の間にも伝わり、やがて庶民の間にも広がりました。
室町時代中期には門前で「粉川市」が開かれ、町場成立の基礎が生まれます。
戦国時代になると巨大な僧兵軍団を抱える寺となります。この粉河寺の僧徒は主に衆徒方、行人方、方衆方の3集団がありましたが、身分の違いから互いに抗争を繰り広げながらも勢力を拡大していきます。しかし豊臣秀吉の紀州攻めの前に、粉河寺は根来寺などとともに焼き払われてしまいました。
粉河寺が再建されるのは江戸時代に入ってからで、紀州藩徳川家の保護のもとで発展。門前町は大和街道と大阪方面から加太へ至り淡路島・四国へと渡る道である根来街道(淡島街道とも)の交差する要衝としても栄えました。一方で「粉河酢」などの醸造業をはじめ、コンニャク、うちわ、鋳物などの生産地として、単なる門前町の域を超えた発展ぶりを見せ、紀北一帯の物資の集散地となっていきます。
やがて明治33年に紀和鉄道(現・JR和歌山線)が開通すると、粉河駅と粉河寺を結ぶ参道が市街地として新しく開けますが、交通体系の変化はそれまでの粉河町発展の要を大きく変えてしまい、経済的的機能は衰退、再び純粋な門前町へと戻されてしまいました。「粉河酢」の醸造も明治から始まった大規模な合成酢の前に全て廃業していくことになります。
現在、JR粉河駅から粉河寺にかけての参道沿いは再開発整備が行われ、かつて見られた商家が建ち並ぶ姿は失われてしまっています。一部参道沿いに残る旧家が修復保存され、展示物のように佇んでいる姿が散見されます。新しく生まれつつある町並みから細い路地を抜けて一歩裏手に入ると、景色や喧噪は一変して古い建物がところどころ残されていました。しかしこのあたりも宅地開発が進んでいます。
|