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深草(伏見街道/本町通)
ふかくさ
 伏見稲荷門前と伏見街道の町並み
 京都府京都市伏見区深草直違橋・御前町
商家  伏見稲荷P・民間P  JR奈良線・稲荷駅/京阪電鉄・深草駅
 
 

全国約4万社の稲荷神社の総本宮、伏見稲荷大社。その門前にあった深草村は農業のかたわら土器をつくる小さな農村でした。この村が大きく変わるのは、豊臣秀吉による伏見城の築城と城下町の建設に始まります。

秀吉によって築き上げられた城下町伏見とともに深草にも繁栄がもたらされました。しかし秀吉の没後、徳川家康は二条城の完成によって伏見城を破却し、城下町伏見は商業の町として再出発することとなります。
深草を南北に走る道を伏見街道といい、深草あたりでは直違橋通とも
呼ばれます。この道は関白を退いて伏見城に入った秀吉と京の町を結ぶメインストリートで、特に名所や古刹の多い深草は参詣の旅人で賑わいました。大名が参勤交代でも行き来した道で、伏見稲荷門前に立つ京料理の老舗「玉屋」は大名の宿としても使用されていました。京と大坂を結ぶ主要道となるこの街道筋は、幕末の内戦で激しい戦場となり町は消失してしまいます。

深草をはじめとする伏見の町が再興するのは明治31年に、陸軍第38歩兵連隊の旅団司令部が伏見に置かれたのに始まり、その後第16師団が深草に駐屯してからの事でした。伏見は軍需産業の町として活況を取り戻し、師団司令部や兵舎の置かれた深草には、軍の需要に群がるように商家町が形成されていきます。

深草直違橋から伏見稲荷前にかけての伏見街道沿いに古い商家や町家が続きます。これらの街並みは明治期以降に建てられたもの。深草藪之内町など表通りから一歩裏手にはいると、これまた京の町らしい情緒ある裏路地の風景がありました。

この伏見街道、一方通行の細い道ながら伏見稲荷や東福寺など人気寺社がある為か、年間を通して渋滞道路です。観光客であふれるシーズンなど悲惨なもので、一度車で進入すると、抜け出すのに容易ではありません。

ちなみに、伏見稲荷大社は俗に「日本三大稲荷」のひとつとされていますが、総本宮はここだけで、あとは各地の有力稲荷神社が勝手に名乗りを上げているだけとか。

 
 
 
 
 
伏見稲荷門前の玉家は創業400年の老舗・伏見街道の本陣も兼ねた
 
東山区の本町11丁目付近・この先が新幹線の撮影ポイント