五条楽園。「地名+楽園」はそのほとんどが歓楽街、かつての赤線地帯を指しています。京都駅の北東約1.2km。現在の東海道こと国道1号線が京都市街に入り、鴨川に架かる五条大橋を渡り終えた場所に五条楽園と呼ばれる町があります。正式な地名ではありません。
京都最大の花街と言われた五条楽園。京都の遊郭と言えば、歴史的にも「島原」が知られていますが、あちらは主に武家や富裕層を相手にした高級花街。しかし幕藩体制の崩壊と時代の変化に取り残され、いや道連れとなって急速に衰退していきました。方や一般の庶民の為の花街であった五条楽園(当時は七条新地)の繁栄はその後も続き、戦後も赤線地帯として生き残りました。
当時でも150軒を数え、売春禁止法施行後には半減したといっても80軒。現在でも15軒あまりが現存していますが「風俗街」の様相は一切ありません。今は「クラブ」と名を変えた「茶屋」と「置屋」が分かれている伝統と共に、その佇まいも維持されています。
もっとも、一般の人の利用はあまりありません。限られた一部の人間にのみ門戸を開き、それ以外の訪問者を拒絶する独特のオーラ、結界で包まれています。また、地域内には京都を活動拠点とする任侠組織の総本部もあって、一般の観光客はほとんど足を踏み入れる事の無い地域です。
ここで少し歴史を振り返ると、この五条楽園が生まれるはるか昔、平安京の時代には、源融(みなものとのとおる)六条河原院がこの場所にありました。源融とは紫式部『源氏物語』の主人公、光源氏の実在モデルの一人といわれ、10円玉の裏側に描かれた宇治の平等院の前身となる別邸を営んだ人物でとしても知られています。
五条大橋のたもとにあるのに、六条河原院と称しているのは、現在の五条通はかつての六条坊門小路だから。平安期の五条通は現在の松原通。五条通の一本北の通りです。豊臣秀吉が方広寺参拝のために、五条大橋を六条坊門小路に移設し、通りの名も入れ替えたのです。
六条河原院は現在の五条通(六条坊門小路)から六条通に至る規模の庭園だったと言われています。しかし平安京の崩壊と長く続いた戦乱によって、六条河原院も荒廃しこの一帯は竹林や田畑に姿を変えていました。
町場の開発が始まったのは江戸時代中期の宝暦8年(1758)ごろと言われ、現在の都市町が生まれます。3年後の宝暦11年には南京極町が北野上七軒から茶屋株を借受けて茶屋営業を始めたのを機に、五条橋下各町に波及し歓楽街の始まりとなりました。寛政2年(1790) 年には「七条新地」に近かった事から遊女屋渡世も始まり、公許の花街となりました。明治には七条新地と合併して名前も七条新地になります。「五条楽園」 となるのは、昭和33年の売春防止法の施行からで、戦後はいわゆる「赤線」地帯と呼ばれる町となったのです。
|