慶応4年(1868)1月、300年続いた徳川家江戸幕府と新政府の立場を逆転させる契機となる鳥羽伏見の戦い。下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と幕府大目付・滝川具挙の問答を端に軍事的衝突が起こり開戦します。
下鳥羽は鴨川が西高瀬川を合わせて桂川に合流する左岸の地域で、古くから水陸交通の要衝として栄え、水陸運に従事した人々が生活し、また鳥羽街道の宿場町でもありました。
鳥羽街道の歴史は古く、平安京造営にあたり、平安京の玄関口である羅城門(羅生門)から真っ直ぐ南下していた計画道路である鳥羽作り道(とばつくりみち)に端を発する道で、時代は下って、天下統一を果たした豊臣秀吉が伏見城築城にあわせて、巨椋池に堤をめぐらせ現在の下鳥羽・納所間の桂川左岸に堤を築いて、現在に至る鳥羽街道の道筋を開きました。
江戸期には洛中を縦貫する千本通に繋がり、淀からは大坂へと通じる道が続いていた為に、京街道または大坂街道とも呼ばれていました。この鳥羽街道は現在千本通の南端部に数えられ、鳥羽街道の名は使用されなくなりました。
堤防上を走る旧鳥羽街道の中で古い街並みをかろうじて残す、下鳥羽長田町・同、前田町に
は鳥羽伏見の戦いの戦火をくぐり抜けた京都有数の古い歴史を有する酒蔵、延宝3年
(1675)創業の増田徳兵衞商店を中心として僅かですが、往時を偲ばせる家並みが残されています。この鳥羽街道沿いに建つ増田徳兵衞商店は、かつては京から西国に赴く公家の中宿をつとめた旧家でもあります。
なお、さらに下った下鳥羽三町には米問屋大沢家の倉庫群や古い街並みが残されているらしいのですが、今回は残念ながら訪れ損ないました。追って訪れる予定です。
|