京都市伏見区の南西に大きく付き出した淀地区は、江戸時代に稲葉家10万2000石の城下町として、また京街道の宿場町として栄えた町ですが、伏見区内では陸の孤島のような場所です。もっとも京阪本線の駅があるので交通のアクセスは良好。また京都競馬場がある町として、レース開催の日は大変賑わう町でもあります。
淀は平安時代からすでに京都周辺の水陸交通の要衝で、古くは与等、与度、または澱とも書かれていました。この時代の与度ないし澱という地名は、桂川・鴨川・木津川が合流して淀川となる付近一帯の総称だったようです。
山陽道、南海道諸国、太宰府からの物流における海路終点の地と延喜式にも記され、与度津と朱雀大路を結ぶ与度道が整備されていて、軍事上も極めて重要な地である事は容易に想像できます。鎌倉期以降には京都の外港としての発展のほか、巨椋池を後背に控えて魚市が立つ町として賑わいました。
豊臣秀吉の時代が終わり、江戸時代になると、淀藩が伏見藩の廃藩に変わって、京都防衛の為に設けられ、城下町として発展します。こn城下町は京街道沿いにあった事もあり、参勤交代その他京へ上洛する諸大名の滞在を嫌って、宿場町を城下の北へ遠ざけた結果、その後の町の機能は分散し、時を経て現在の淀中心部に往時を偲ばせる町並みはあまり残されてはいません。
ちなみに宿場町はる納所(のうそ)町に設けられ、伏見宿から5.4kmと近かった事もあり本陣、脇本陣は無く16軒の旅籠があったと記録されています。
淀地区は宇治川と桂川に挟まれた、長細い中洲のような立地に形成された町ですが、その中心から南へ約1.5kmほど、洲の先端に向かっていく途中に、美豆という名の地区があります。美豆は京街道沿いに栄えた街道集落・そして旧河港町です。
この美豆地区には、現在も「浜納屋」と呼ばれている土蔵街や商家を多く残していました。
淀美豆町(よどみづちょう)は淀川舟運の河港であり、また京街道に沿った町で、当時は旅籠も建ち並んだ水陸交通の物流・交通ターミナルであり、今もなお、現役の醤油醸造蔵を初め古い家並みが堤防上を通る京街道に沿って街村を形成し、往時の面影を色濃く残していました。
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