花見小路通は今や祇園の代名詞的な観光エリアです。
そもそもの「 祇園」は八坂神社西門前、四条通りを挟んで鴨川の東一帯地域の総称で、明確な範囲は示されていません。古くは祇園社
(現八坂神社)、清水寺の門前町として形成され、鎌倉時代からすでに遊興地として発展していました。しかし応仁の乱によってすべてが灰燼に帰します。
祇園が再興するのは江戸時代に入ってから。四条通を挟んで「ぎおん丁」の名が見え始めます。この四条通の町並みを中心に祇園町北側・南側と市街地が拡大していき、祇園外六町、さらに祇園内六町が形成されていきました。遊郭としては度々規制を受け、幕末には島原以外の遊郭が全面的に禁止されますが、立地条件にも恵まれていた事から、表向きには転業を装いながらも、八坂神社(祇園社)の修築のために特例として営業を認められ、
島原に匹敵する一大遊興地として発展していきます。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1,000人以上いたといいます。
祇園は幕府公認の島原よりも、その気軽さから庶民に喜ばれ、明治以降に島原は没落しましたが、祇園は繁栄を重ねていきます。
花見小路通は三条通から建仁寺門前に至る約1.4kmの道です。北は三条通から先は新東洞院通に繋がります。東山の歓楽街の中心で雑居ビルが林立しているのが今の姿。
通りの歴史は意外に浅く、明治7年に祇園甲部お茶屋組合が祇園町南側一帯を京都府から譲り受けて花見小路通が生まれました。四条通り北側の祇園新橋を含めた、旧祇園乙部・今の祇園東地区がスナックや性風俗店の進出によって環境が悪化していった中で、祇園町南側は女紅場学園所有地であった為に乱開発から逃れ、伝統的な花街の面影を残す街並みが残りました。そして歴史的風景特別修景地区に指定されました。
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