祇園で最も観光客で賑わう花見小路通に近い、鴨川東岸に沿った細い道筋が宮川町通りで町名で宮川筋とも言い、町名の宮川筋1〜6丁目を総称して宮川町とも言います。北は四条から南は五条に至り、団栗通と松原通付近で少し道筋がずれます。
宮川という地名は鴨川の別名に由来します。現在はひっそりとした生活感のある裏通りですが、古くは祇園付近で最初に人家が開けた場所だったのです。やがて2丁目以南は寛延3年に拡張され、6丁目から8丁目は元禄12年に京都所司代松平紀伊守庸によって整備されました。同町は鴨川水害対策のために、石垣の堤防を築いたことから石垣町とも称され、対岸の斎藤町を西石(さいせき・西石垣町の意味)に対して東石(とうせき・東石垣町)とも呼ばれていました。ちなみに石垣町という地名は鴨川の西岸に残ります。
宝暦年間ごろから宮川筋の全域が遊郭となります。当初は1から6丁目に限定した10年間の期限付き許可でしたが、勢いは止まらず町全域まで拡大。天保13年の幕府の禁止令まで繁栄が続きます。
禁止令後も遊女は芸妓に転換して追放を逃れ、町は祇園新地や先斗町に匹敵する遊里へと、したたかに成長しました。昭和初期の宮川町
には、貸座敷150軒があり、娼妓は330人いたと言われています。やがて戦後、公娼制度の廃止にともない御茶屋は旅館や飲食店、下宿屋などに転業。現在の宮川筋は稀少な歴史的な町並みが残り、「宮川町歴史的景観保全修景地区」に定められています。
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