洛東を代表する白川が鴨川に合流する付近に、「伝統的建造物保存地区」に指定されている
かつての花街の景観を色濃く残す通称「祇園新橋」地区があります。このあたりは祇園花街の北西端に位置する町で、江戸時代の正徳3年、知恩院の山門から西へ縄手通りまで道が作られた際、白川に架けた橋から「新橋」と呼ばれはじめました。新橋通りから一筋南の白川南通沿いには、祇園をこよなく愛した歌人・吉井勇の歌碑があります。
「かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」
白川は花崗岩つまり石英を主とする白砂からなる川であることにその名が由来します。
この白川に沿った通りが「白川通」で、川筋は人工的に直角に折れ曲がり、花見小路通を境に白川南通と白川北通に分かれています。
現在白川通とは左京区山麓を南北に、左京区の北白川まで至る大通りですが、この道筋の大部分は明治末期から昭和初期にかけて建設された道で、大正7年に現在の左京区域が京都市に編入されてから、同地域を開発する為の幹線道路として南に延びていったのです。
「
祇園」は八坂神社西門前、四条通りを挟んで鴨川の東一帯地域の総称で、明確な範囲は示されていません。古くは祇園社 (現八坂神社)、清水寺の門前町として形成され、鎌倉時代か遊興地として発展。江戸期には四条通をはさんで「ぎおん丁」の名が見え始めます。この四条通の町並みを中心に祇園町北側・南側と市街地が拡大していき、祇園外六町、さらに祇園内六町が形成されていきました。
遊郭としては度々規制を受け、幕末には島原以外の遊郭が全面的に禁止されますが、立地条件にも恵まれていた事から、表向きには転業を装いながらも、八坂神社(祇園社)の修築のために、特例として営業を黙認され、島原に匹敵する一大遊興地として発展していきます。
もうひとつ四条河原一帯は豊臣秀吉が築いた御土居の外側にあった事から、かなりの自由が許され、人々が集まり、芸能を提供する商業演劇が始まりました。江戸時代には茶屋や芝居小屋が立ち「河原夕涼み」もこの時代からの風物詩です。
そして幕末ごろから白川沿いの新橋あたりが開けはじめました。この白川沿いの町が祇園内六町です。
明治14年(1881)京都府知事の命で祇園は甲部と乙部の二つに分けられます。旧・近江膳所藩本多家の広大な屋敷敷跡地一帯に生まれた「膳所裏」お茶屋が乙部と指定されました。後に祇園乙部は祇園東新地と名を改め、さらに戦後に祇園東と称されて今に至っています。
この祇園東は地名ではなく祇園新橋を含めた四条通北側花街の総称です。
戦時中に白川沿いの北側は建物疎開で破壊され現在の白川通となり、また対岸の風情のある水辺の茶屋街の街並みも、その後の比較的新しい時代に形成されたものです。
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