古刹や吉野梅林で知られる吉野町の東郊外、東吉野村と接し、同村から流れ込んできた高見川が吉野川に合流する場所に国栖という町があります。
神武天皇の時代からその名が始まり、古くから紙漉の里として知られた土地でした。江戸時代には伊勢参詣と紀州藩主の参勤交代の道でもあった和歌山街道(伊勢南街道・大和街道)が通り、さらに東熊野街道と上市街道の分岐する交通の要衝としても栄えます。
明治22年に14ヶ村が合併して国栖町が成立、その後昭和31年に吉野町と合併して、旧村の大字を継承、野々口が国栖と改名した為に町の中心は新子(あたらし)となりました。
国栖の和紙は江戸時代に宇陀郡の紙商人を経て販路を広げた為に「宇陀紙」と呼ばれ、傘や表紙、帳面、油紙などに用いられる高級紙でしたが、明治に入ると需要は減り、養蚕業へとシフトし昭和初期にピークを迎えます。今も国栖・新子の家々にはその時代の名残である
「煙出し」が屋根の上に見ることができます。
近年、国栖の和紙は伝統産業として見直され初めていますが、現在の主な産業は製箸業となり、美しい木目と香りを持つ「吉野割り箸」のブランドを確立しています。
明治に入り、街道集落としては下火になった国栖ですが、明治後期にそれまでの五社峠道に変わって、自動車通行可能な新道が建設され、これにより新子・国栖は再び奥吉野商圏の中心となりました。
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