大和高田市と御所市にはさまれた新庄町の中心部のやや西側の地区には、江戸時代に陣屋町として発展した町並みが当時の町割りと共に残されています。
町の西に位置する屋敷山公園が当時陣屋が置かれていた場所だとされています。
江戸期の新庄藩は大きく2つの時代に異なる形態で存在します。まず江戸初期の新庄藩は、紀伊和歌山に4万石を領していた桑山重晴の嫡孫桑山一晴が関ヶ原の戦いの功により布施郷に2万石を与えられ布施藩が成立。その後新庄村が形成され新庄藩へ改名となります。町割り及び城下町の建設は旧布施氏の重臣村野政盛が担当、城下建設の他に高田村を寺内町として発展させ、現在の大和高田市の基礎を築きます。しかし天和2年(1682)4代藩主桑山一尹は江戸寛永寺での将軍家綱の法会の際に勅使に対して不敬があったとして改易となり、ここに前期新庄藩は終わり所領は幕府に公収されます。城下町では無くなりましたが新庄は下ッ街道や竹内街道が合流する要衝に位置していた為に在郷町として存続します。
延宝8年(1680年)丹後宮津藩主だった永井尚長は、増上寺での将軍家綱の法要の際に、共に警備担当を命じられながら兼ねてより不仲だった志摩鳥羽藩主内藤忠勝に突如斬りつけられ絶命します。当然内藤家は御家断絶となりますが、斬られた永井家も士道不覚悟ということで改易されてしまいます。しかし永井家に対し情状酌量の裁量が下され、弟の永井直圓に大和新庄1万石の存続が許されます。これが後期新庄藩ですが、しかしこの永井氏は代々定府で新庄に陣屋を構えた記録がなく、幕末の8代藩主永井直壮のときに、現在の御所市櫛羅(くじら)に陣屋を構えたため、新庄藩ではなく櫛羅藩として幕末を迎えました。ちなみに永井尚長に斬りつけた内藤忠勝は、忠臣蔵で知られる浅野内匠頭長矩の伯父でもあります。
新庄の町割りは陣屋町時代の町割りがそのまま残ると言われるように、狭い碁盤の目状の町割りは、自動車の町内通過は大変難儀であり、よって交通量はあまりなく静かな町並みが保たれています。伝統的な建築物の町並みはあまり連続しては残されていませんが、古いものは大和棟の病院を始め厨子二階の町家や総二階建ての商家建築、さらに袖壁を持った町家の家並み、新庄小学校近くには元禄年間に立てられた村井家住宅をはじめとする武家町の面影など小城下町らしいバラエティーに富んだ町並みが残されています。
|