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  大和郡山
やまとこおりやま
 豊臣家100万石そして柳沢家15万石の城下町

 奈良県大和郡山市(柳・紺屋町・本町・塩町・洞泉寺町・東岡町・他)

 構成:商家・町家・酒蔵 ■ 駐車場:なし
 
紺屋町の水路風景
郡山は平城京は朱雀大路南端にあった羅城門の外に広がる荘園にその端を発し、戦国時代に大和を制した筒井順慶によって郡山城が築城され城下町として歩み始めます。豊臣秀吉が天下を取ると筒井順慶の子筒井定次は、伊賀上野へ転じられ替わって秀吉の弟である羽柴秀長が大和、和泉、紀伊3ヶ国100万石で郡山城へ封じられました。これにより100万石にふさわしい城の整備と城下町が造られます。
秀長は当時商都として栄えていた奈良町での、一切の商業を禁止し大和国において郡山城下のみ商業活動を許可する保護政策を取り、城下町は急速に発展しました。
徳川家康の時代になると郡山城には大阪の陣の功労者である水野勝成が6万石で封じられ郡山藩が成立します。継いで大津より松平(奥平)忠明が12万石を経て、徳川譜代名門の本多政勝が15万石で封じられます。しかし政勝が没すると跡継ぎを巡るお家騒動「九六騒動」により、嫡子政長9万石と庶子正利6万石に分割されます。これはやがて名門本多家衰退のきっかけへとなります。
松平(藤井)信之8万石、本多忠平が12万石で封じられ4代続きますがついに無嗣改易。そして最後に五代将軍徳川綱吉の側用人と知られる柳沢吉保の子である柳沢吉里が甲斐府中より15万石で入封し、6代続いて明治を迎えます。

大和郡山の風景として有名な紺屋町の水路は今もなお、ひっそりと残されています。かつては13軒の紺屋がこの水路で藍染め布を晒していたと言われます。
堺町から塩町には伝統的な厨子二階塗籠造りの商家が見られ、東の本町には江戸時代創業の清酒「菊竹」中村酒造の町並みがあります。
近鉄郡山駅の南側にはかつて遊郭があった洞泉寺町や東岡町があり、このあたりにも古い町並みが残されています。欄町と本町が接する場所には重厚な屋敷が残されていますが、その前後で道路拡張が進められており、虫食い状態で立ち退きが進んでいます。町並みが残されている場所には「市の優良景観地区」の表示を眼にしますが、相対的にあまり古い町並みを大切にしている様には思えない印象を受けました。
塩町の町並み
本町の中村酒造
柳町
大和郡山の酒蔵          
清酒 「菊竹」 中村酒造 奈良県大和郡山市本町2 07435-2-2033