吉田町は広島県の北部中央、高田郡の中心に位置する町で、江の川に支流・多治比川が合流する小盆地に、中世の毛利氏によって築かれた城下町に始まります。江戸時代以降には出雲街道の宿場町、高田郡の行政、経済、文化の中心地として栄え、2004年に高田郡の町村が合併して生まれた安芸高田市でも市の中心となっています。
中国地方全土を支配した戦国の覇者、毛利氏のルーツはこの吉田荘の地頭に任じられた事に始まると言われ、その広島に本拠地を移すまでの長いあいだ、この山間の小さな町・吉田が毛利氏の拠点であり、いわば中国地方の”首都”だったのです。城下町の人口は数万とも言われ、「西の京」「吉田千軒」と称される繁栄ぶりは、今ではとても想像ができません。
現在の国道54号線は、古来よりの陰陽連絡道で出雲街道とも称されていますが、本格的に整備されたのは毛利氏がこの吉田から広島に移城を行った後からで、新旧の城下町を結ぶ街道のほか、山陰地方への軍用道路として整備されました。
吉田は城下町から宿場町へと変貌をとげますが、出雲街道の整備は毛利氏左遷後の、福島氏に始まる広島藩によっても継続され続けます。、広島藩の脇往還、さらに幕府巡検使街道として最優先で整備が行われ、道橋奉行と御茶屋作事奉行が任じられ、吉田の本陣(御茶屋)では幕府巡検使の接待が行われています。
明治以降も高田郡の中心地として、官公庁が置かれますが、地位的要因から鉄道路線が町を通ることは出来ず、その後の町の発展に陰りを生み、戦争の影響もあって町の斜陽が始まります。
現在も古い町割り、城下町時代の遺構である町名や小路、路地の名。本通り商店街に残る数軒の商家に、多治比川沿いの町家など、藩政時代の名残をわずかに残していますが、高田郡の中心都市にしては密度も薄く、活気もほとんど無い様に、時代の栄光盛衰をまざまざと見せつけられた気がしました。
|