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  御手洗
みたらい
 瀬戸内海の小島に残る白壁商家の町並み

 広島県豊田郡豊町御手洗(大崎下島)  【広島県呉市豊町御手洗】2005年合併

 構成:商家・町家土蔵 ■ 駐車場:竹原港ー山陽商船高速船・約40分

 
 

瀬戸内海に浮かぶ小島に残された古い町並みを残す集落。香川県の塩飽本島に残る
” 笠島”と並ぶ聖地である御手洗に、かなり後廻りになったもののようやく上陸する事ができました。今まで広島・岡山には何度も訪れながら、この白壁の港町に足が向かなかった理由に、その離島性がありました。しかし、ついにその日が訪れました。
早朝の竹原港から山陽商船の高速船に揺られること約40分。大崎下島の大長という港に到着しました。便によっては御手洗港直通もあるのですが、半日で切り上げるにはこの大港からアクセスするしかありません。この大長もまた古い漁村風景を残す集落なのですが、ここから御手洗まで約1.5km。フェリー乗り場に併設する、島唯一の百貨店でレンタサイクルを借り、10分もかからず御手洗に到着しました。

御手洗という地名は、九州の太宰府に左遷された菅原道真が、都落ちの途中にこの小さな漁村で手を洗ったことに由来するといいます。
しかし、江戸時代初期までは人家もなく、大長村の枝村だったこの地になにゆえ、菅原道真が立ち寄ったのかは分かりません。
造船技術と航海技術が未熟だった江戸時代までは、陸の沿岸に沿って移動する”地乗り”が用いられており、この御手洗は瀬戸内海航路からは完全に外れていました。
やがて、今と同じ”沖乗り”という航法が開発されると、御手洗は潮まち、風待ちの港として注目されるようになります。北前船を初め九州や四国の大名が参勤交代のときに寄港するようになると、大長村は御手洗の有用性に気が付き、船舶相手の諸商売を初め、藩に願い出て町場の建設認可を取りつけますした。藩も御手洗港発展の為に保護や助成を行い、急速に一大商港として発展します。遊郭も旺盛になり、全国花街番付に入る町として、その賑わいは終戦まで続いたといいます。
その一つ、若蛭子屋は今も現存し御手洗会館とて使用されている上に、県の史跡にも指定されています。

御手洗の町並みは、江戸時代から明治、大正、昭和にかけて建てられた、さまざまな様式の建造物が入り乱れていますが、白壁に海鼠壁、千本格子の家並みは感動と驚きを覚えます。近年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され町並みは、修復と保存整備が行われいます。博物館のようにリフォームされた伝統的な町並みですが、今なお住民の生活の中にある事が重要です。その町並みの中にある一軒の時計店。
創業150年の歴史を誇るこの小さな島の小さな時計店は、国内外のあらゆる時計を
「100%修理」する匠の技術をもった工房として、世界的にその名を知られた店なのです。数年先まで予約は埋まり、頻繁に修理受付制限を行う程なのです。
以前、この時計店が番組で紹介されており、店先からガラス越しに見える作業場を見て、すぐにそれと分かりました。2つの大きな発見に、町並みの鼓動を感じつつ朝日が昇り始める御手洗を後にしました。
平成17年、御手洗は呉市に編入されますが、周辺の島々を含む大規模な架橋計画が本格的に動き始め、やがてこの島も陸路で結ばれる事になります。

 
 
 
蛭子の若蛭子屋前の町並み