西瀬戸自動車道・通称しまなみ海道によって陸路で結ばれた生口島は、「西日光」と称される浄土真宗本願寺「耕三寺」がある島として知られています。
その門前町でもある瀬戸田には、豪商の屋敷を初めとして伝統的な商家や町家が数多く残されています。ちなみに耕三寺は昭和に建てられた寺院で、瀬戸田の古い町並みはそれよりもはるかに古い、中世から江戸時代にかけて栄えた港町に始まります。
瀬戸田町は瀬戸田水道を挟む高根島の2島から成り、今はお互いが橋で結ばれていますが、生口島と高根島に挟まれたこの狭い水道に位置する瀬戸田港は東西の風を防ぐ内海であった為に、瀬戸内海の主要航路からは反れていましたが、荒天寺の緊急避難港として古くから重要視されてきました。
戦国期にはすでに町場が形成され多くの商人、とくに回船業などを営む豪商が存在しており、江戸時代になると、三原を拠点とした小早川隆景により、三津(安芸津)と並ぶ大陸貿易の拠点基地として整備されていきます。
瀬戸田は商港としてだけでは無く、製塩業も多くの富をもたらし繁栄しました。
塩田のオーナーを「浜旦那」と呼び、旧称御幸町にはそうした豪商の一つ堀内家(三原屋)が現存し、明治9年に建てられたという重厚な佇まいの商家建築は瀬戸田の町並みの中心として、訪れた者の目を引きつけます。
こうして見られる瀬戸田の栄華も昭和に入り急速に衰退しますが、その後は耕三寺の門前町として多くの参詣客で賑わうようになります。
耕三寺の建立は昭和11年(1936)で、地元に誇りうる文化財のないことを憂いだ、瀬戸田出身の実業家の金本耕三が、出家した後、日本各地の古建築を模して数々の伽藍や塔を建て、さらに国宝・文化財を集めた一大博物館としたもので、このこの生い立ちを聞くとテーマパークのようなイメージを持ちますが、建物の多くが文化財級の扱いを受けており、観光客や参詣客が後を絶たない事からも、相当なものである事はあきらかで、古い町並みの整備・保存に関するヒントのようなものが凝縮されているのではないかと考えてしまいました。
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