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福山市の南に突き出た沼隈半島の東側にある小さな港町、鞆。
かつて鞆ノ浦と呼ばれたこの港町は大阪と下関を結ぶ中心地点。つまり瀬戸内海の中心に位置し、古くから潮待・風待の良港であると共に戦略的な要衝でした。
「鞆を制する者は、瀬戸内海を制す」と言われたように、室町時代後半に中国地方を制覇した毛利氏も鞆ノ浦に鞆城を築きます。
江戸時代に来日した朝鮮通信使・李邦彦(り・ほうげん)は鞆浦に寄港し、その美しさを「日東第一形勝」と讃えたことで知られる風光明媚な港町でした。
「足利氏は鞆に興き、鞆に滅ぶ」
後醍醐天皇による建武の親政が樹立した翌々年、反旗を翻した足利尊氏は敗走して鞆浦に落ちのび、ここで北朝の院宣を受け上洛。室町幕府を開いて征夷大将軍となります。時は流れ、最後の将軍となった15代将軍義明は織田信長と対立して京を追われ、鞆浦に落ちのびるも、ついに幕府再興の夢はここに潰えます。
さまざまな歴史やエピソードを持つ鞆ノ浦は、江戸時代に入り北前船などの廻船業によって著しい発展を手にします。江戸中期から明治初期にかけて、保命酒などの各種の酒類醸造で栄えた旧中村家の商家は国の重要文化財。白壁の土蔵に黒漆喰の商家、京の町を思わせる町家や尾道を思わせる迷路のような坂の家並みに寺町が残ります。
しかし、町を南北に走る幹線道路は鞆の市街で狭い路地となり、離合困難な道筋は複雑に折れ曲がって大渋滞を引き起こす。これを打開する為に20年前から持ち上がった鞆浦への架橋計画。さらに追い打ちをかけて、過疎化が進む鞆ノ浦で古い街並みが次々と空き家化しており、建物の維持が危機に瀕しています。架橋計画には住民の95%以上が賛成していると言いますから、国の重伝建や世界遺産選定を目前にしながら、街並み保存や景観保存の難しさをあらためて知らされました。 |
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