|
|
旧新宮町は姫路市の北西に位置する人口約1万7000人の町でした。「播磨五川」のなかで第二位の流域面積をもつ揖保川と、その支流で北部山系を源とする栗栖川の合流地に位置しています。この2つの川に沿って街道は発達し、新宮は古くから交通の要衝の地であったようで、延喜式にもこの地に越部駅家が置かれていたと記されています。中世には藤原氏の荘園として繁栄し、江戸期には栗栖川にそって鳥取・島根へ至る因幡街道(出雲街道)と揖保川に沿って南北に走る宍栗街道が交差。さらに揖保川・栗栖川両水運の中継地として、水陸交通の要衝である在郷町として発展していきました。
また江戸期には、わずか50数年間だけ成立した新宮藩の1万石の陣屋町でもありました。
新宮藩の藩祖池田重利は姫路藩の池田氏系ではなく、元は本願寺坊官の下間頼広という名でしたが、母が池田輝政の姉という関係から池田家に仕えるようになり、やがてその才智と武勇が認められ、主君と同じ池田姓を名乗ることが許されます。またこの時藩主池田利隆の片諱を与えられ池田越前守重利と改名。大阪冬の陣で功績をあげたことから1万石を与えられて大名に列し、その後所領を新宮に与えられてここに新宮藩が立藩したのです。しかし3代藩主薫彰が31歳で病死し、嗣子の邦照が6歳で継いだものの、その後早世してしまい新宮藩池田家は無嗣改易となります。
かつての出雲街道は国道179号線が踏襲し、それに沿ってJR姫新線が走っています。播磨新宮駅を出て東へ少し歩くと、旧宍栗街道に突き当たります。この街道を北にJR姫新線の線路を越えたところに旧新宮藩陣屋跡があります。在郷町時代の面影を残す古い町並みは、線路の反対側、願因寺周辺にわずかながら見ることができました。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|