生野銀山の歴史は古く平安期には発見されていたとされ、室町期には但馬守護山名祐豊氏によって開発され、また播胆国境の生野を戦略上の要地として生野城が築かれました。織田信長の支配下になると、堺の商人今井宗久に経営をまかせ、豊臣秀吉の時代に最盛期を迎えます。始めは人家のなかった生野渓谷ですが、鉱山の発展とともに二階、三階の人家がひしめき、その数およそ880軒、人口は2万人近くに達したといわれます。
江戸時代になり、徳川家康は生野を天領として代官所を置き、本格的に開発を進めます。三代将軍家光の時にピークを迎えますが、その後衰退傾向をみせ、再興、衰退を繰り返し、休山状態で明治を向かえます。
明治政府はフランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエを派遣し、鉱産経営医の近代化を図って生野銀山は再興します。鉱石運搬のために生野〜飾磨港の街道は車両が通行可能な道に整備され、同時に飾磨港も改修されます。明治27年には鉄道(現JR播胆線)が施設されるまでにななります。
やがて銀山は大蔵省をへて宮内庁の管理下に移り、明治29年に三菱に払い下げられ以後、三菱鉱業(現三菱マテリアル)の経営となります。
現在生野町の中心市街である口銀谷(くちがなや)は兵庫県景観形成条例の景観形成地区に指定され、街なみ環境整備事業によって落ち着いた町並みや、近代化産業遺産などが整備保存されています。
かつての鉱山長の宿舎だったものを資料館として改修した生野書院を始め、国道429号線沿いには、白い土塀で囲まれた明治政府の銀山役人の集合住宅が今も住居として残り、郷宿井筒屋(旧吉川邸)も「生野まちづくり工房井筒屋」として再生されていました。
また、観光ルートからは外れますが、町を縦貫する旧但馬街道沿いには宿場町の面影が残されています。
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