神戸と丹波篠山の中間に位置し、周囲を山々に囲まれた三田市。古くは金心寺の門前集落として形成されていた町場が、戦国期、江戸期を経て外様小藩の城下町として発達しました。
戦国末期に織田信長の家臣荒木氏によってその基礎が整備された三田は、関ヶ原の戦いが終わり家康の時代になると幾度もの領主変遷しを経て、伊勢鳥羽でその力を誇った九鬼水軍の九鬼久隆が3万6000石で入封し、以後13代約240年にわたって九鬼氏の支配のまま明治を向かえます。
強大な水軍として知られた九鬼氏は、関ヶ原の戦いで東西両軍に分かれて戦い、結果所領を安堵されるものの、跡目相続を巡るお家騒動で家中を二分。度重なる幕府の仲裁にもかかわらず騒動を繰り返した為、ついに九鬼家は志摩を取り上げられ、九鬼久隆は摂津三田3万6千石、九鬼隆季は丹波綾部2万石に分割される裁定を受けてしまいます。
内陸の小藩に追いやられた九鬼家は城の造築は許されず、陣屋を置いて藩の経営にあたりました。10代藩主九鬼隆国のときに城主格への昇格が認められ、菊間詰めとなりますが、この時代の大名に築城する余力はありませんでした。
陣屋は三田御池の北側、現在の三田小学校から有馬高校一帯にあり、屋敷町という名が残るあたりが侍町、つまり武家屋敷があった場所でした。現在は資料館として保存されている明治期の擬洋風建築である旧藩主九鬼家邸が唯残された遺構です。
摂津の米相場を決めるほどの米集散地として発展した町人町が現在の三田町で、一夜にして万両を動かしたと言われる数多くの豪商を輩出。その旧家の建物が今も何軒か残されてはいるものの、資料館として生まれ変わって商店街の中にうもれ、かつての面影を残す町並みも、人々の喧騒すらそこにはありませんでした。
明治以降は交通体系から取り残され、山間の農村都市として衰退していった三田ですが、高速道路や鉄道の整備により、神戸のベッドタウンとしてその姿を変えつつあります。伝統的な商家建築は町の至るところで目にしますが、保存整備に向かうには今ひとつ難しい現状が感じられます。
|