「備前焼の里」で備前市は岡山県東部沿岸に位置する人口約3万7000人の中核都市。(ちなみに備前国の国府は現在の岡山市付近)その中心部が片上です。
瀬戸内海らしい、小さな島々を分け入って、深く入り込んだリアス式海岸の最奥に位置する港町である片上の歴史は古く、古来よりの要港として「延喜式」には”方上津”の名で登場します。
片上湊は海を持たない内陸の美作国の国府津でした。美作からの物資や税物は、陸路で和気を経て方上津まで運ばれ、ここから海運で上方まで運び出されたのです。その道筋は津山街道もしくは片上往来とよばれ、国道374号線が踏襲しています。
鎌倉時代に、それまで険しく治安の悪かった船坂峠にかわり、新しく片上を通る「南道」と呼ばれるルートに変更されると、片上は陸海交通の要衝として発展していきました。
江戸時代には山陽道の本格整備と共に、この片上は宿場町に指定され、本陣・脇本陣が置かれます。西国の諸大名が参勤交代でこの片上に宿泊し、岡山藩主の指定宿も定められていました。また、伊部で焼かれた備前焼の積み出し港としても重要な位置付けだったのです。
現在は港湾部も含めて煉瓦工場の城下町といった様相で、町の活気は今ひとつ。人影も無くシャッターの降りた店舗や空き地の目立つ、アーケード商店街や町の目抜き通りは、かつての旧・山陽道。古い建物はほとんど無く、昭和レトロな建物がポツポツといった感じです。
古い町並みという程ではありませんが、往時を偲ばせる建物が見られるのは、町の中心部を外れた西側と東側です。東の旧道沿いに建つ玉泉酒造の酒蔵とその周辺がもっとも印象的ですが、宿場町時代の建物は無く、近代国家への道を駆けはじめていた頃の家並みです。
かつてこの片上から北へ久米郡柵原町(現・美咲町)へ至る片上鉄道が走っていました。同和鉱業(現・DOWAホールディングス)が経営していた貨物線で、柵柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱を片上港から積出すにあたり、吉井川に代わる輸送手段として大正12年に開通しました。その後は沿線住民の通勤・通学の足としても重要な役割を担っていましたが、1991年6月に廃線となります。現在はその一部、片上から吉ヶ原までの全長約36kmがサイクリングロード「片鉄ロマン街道」として整備されていて、その道筋に鉄道跡の遺構を見る事ができます。 |