備前焼の里として知られる備前市と、地中海に似た風光明媚な港町で知られる牛窓町の間にあさまれた邑久郡邑久町。その邑久町に虫明という変わった地名の港町があります。
邑久丘陵の谷間に海水が進入して生まれた、リアス式海岸の入江にあり、古来より風待ち・潮待ちの要津として賑わっていたといいます。この風光明媚な海岸では夜に海中で光る夜光虫が見られた事が「虫明」の由来と言われています。ちなみに地元では「むしゃげ」と発音する場合もあります。
この虫明が大きく発展するのが江戸時代に入ってからで、岡山藩筆頭家老・伊木氏がこの地に陣屋を構え、備前東海岸の沿岸警備にあたった事に始まります。
陣屋を中心に約50もの武家屋敷が構えられ、”上町”と名付けられた武家町の周囲には境界が設けられ、東西には門が置かれて、一般町民の立ち入りは禁じられていました。一方で町の方も職業別の配置・町割りが行われ、小城下町の様相を呈していきます。
岡山藩31万石の家老である伊木氏は実に3万3000石と、小藩に匹敵する石高を有していて、その他の要職も3万から1万石の石高を誇り、いずれも領内に陣屋町を形成していましたが、陣屋町という名称は幕府が認めた大名に限られる為、対外的には「お茶屋」と称していました。
ボラ漁を中心として100隻ちかい漁船を有すると共に、この地域における政治・経済の中心として、商業も発展し在郷町の性格を有する港町でした。
しかし、やがて時代は変わり、陣屋は配され、港も浅瀬であった事から明治期以降は徐々に活気を失っていき、瀬戸内海の漁村の一つとしての道を歩むことになります。
現在、漁業の中心はカキの養殖で、その生産量は全国で2位を誇ります。邑久町の中心は山を越えたずっと西の、JR赤穂線・邑久駅の近くにありますが、虫明は町内で最も多い世帯数の集落です。
この集落の目抜き通りは、港から延びる2つの筋で、この通り沿いにわずかながら古い佇まいの民家が数軒見られます。ほとんどは大正・昭和以降に建てられたもので、特に歴史的に重要な建造物はありませんが、小さな港町ですので、家並みにまとまりがあって、なつかしい、ふるさとの様な面影を残しています。
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