岡山駅から山陽本線で一つ目の駅である庭瀬には、今も白壁になまこ壁の伝統的な商家が数多く残されています。この庭瀬と接する撫川の地区は、江戸時代に2つの城下町(陣屋町)として発展した歴史を持ちます。
現在、古い町並みの保存整備が進められている旧庭瀬往来。この町並みから一歩裏手に入ると、迷路のように張り巡らされた水路、クリークがあります。古くはこの一帯は海に面していて、その後干拓によって新田開発が行われ、内陸化していった事を示しています。
庭瀬駅の西にある撫川城跡公園はその名のとおり、撫川城の城址というより遺構です。かつて泥沼に築かれたこの沼城は、戦国期に備中の部将三村元親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したと言われ、その後は宇喜多氏の支配となります。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍主力となった宇喜多秀家の家老であった戸川達安は内紛によって東軍方につき、その功によって2万9200石で庭瀬城に入り、ここに庭瀬藩が成立します。しかし庭瀬戸川家は4代で無嗣改易。しかし分家が撫川と妹尾でそれぞれ陣屋を構えて明治まで存続します。
この時撫川城は2分され、撫川戸川氏は三の丸に陣屋を設けて領地を支配。一方で二の丸は庭瀬陣屋となり、
庭瀬藩は久世重之5万石、松平信通3万石と藩主変遷の後に、元禄12年
(1699)上総高滝藩より板倉重高が2万石で入封し、明治まで11代172年間在封します。
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