岡山県南東部の片隅に観光リゾート地として開発が進む港町・牛窓があります。
この牛窓の歴史は古く「万葉集」にも登場した、瀬戸内海航路における室津・鞆・尾道とならぶ重要な港町でした。港は潮待ち、風待ちの船で賑わうとともに、朝鮮や明とも貿易を行う国際貿易港として発展します。江戸時代になると鎖国政策によって国際貿易港の歴史に終止符が打たれますが、北前船や西国大名の参勤交代の寄港地として再び活気を取り戻しました。
なかでも朝鮮通信使が寄港する最には港は盛況を極めます。当時鎖国のなかにありながら友好関係にあった朝鮮は、幕府将軍が代わるごとに朝鮮通信使という外交使節団を派遣しました。来日する通信使一行は500名に登り、接待する日本側の人数を含めると1000人に達します。岡山藩は通信使の宿泊の為に御茶屋を設け、藩をあげての接待が行われました。
牛窓港沖にある防波堤は江戸期に築かれたものです。岡山藩主池田綱政によって築かれたおよそ750mの防波堤は、百間領波止もしくは一文字波止と呼ばれました。この堤防より東南の風が吹いても停泊可能になり、牛窓港を出入りする船は増加、鎖国によって衰退しかけた牛窓は復活を遂げ「牛窓千軒、泊まり船千隻」と歌われるほどの繁栄を手にします。
エーゲ海をテーマにしたリゾート地化が進む牛窓には歴史を語る建物が数多く残されていますが、なかでも旧牛窓警察署や中国銀行など大正時代のレトロな建築物がガイドブックなどに紹介されています。往時の港町の風情を残す古い街並みは、眩しいほど白い旧牛窓警察署であった海遊文化館の裏手から始まり、旧郵便局、服部本家酒造場を左手に過ぎ、西町・本町と商家建築や旅籠建築、土蔵などの家並みが続きます。
赤煉瓦の中国銀行を過ぎ、五香宮・牛窓灯籠堂跡で町並みは終わります。
この間およそ900m。牛窓千軒といわれた家並みも老朽化や無住が増え、ところどころに取り壊された跡地が虫食いの様に残されています。半島の最端部にひっそりと残された、かつての栄華がわずかに香るどこか郷愁感ただよう町並みがこの先どのようにして残されていくのか、町並みの中核となる服部本家酒造場の朽ち始めたまま、放置された姿からは懸念だけが残ります。
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