有明海に臨む多良岳山麓に位置する鹿島は佐賀藩鍋島家三支藩のひとつ鹿島藩の城下町でした。佐賀藩初代藩主鍋島直茂の二男鍋島忠義が2万石を分知され成立します。とはいってもお家問題でしかたなく分家しただけの小藩で石高は本家の内高。
当然独立支藩でなく名目上の支藩であり、領内の自治権以外のほとんどは何の権限もありませんでした。鹿島藩は水面下の工作で幕府から朱印状を交付され形式上は参勤交代を行う独立した大名となりますが、これによって他の支藩を巻き込んだ、本藩との重大なる確執を生むことになります。
宗藩である佐賀藩は「三家格式」を施行、鹿島藩を含めた支藩は親戚から家臣へと格下げされた上に本藩の介入が一層激しくなります。
鍋島正茂の時に宗藩は強引に宗家の養子を強要。とうとう耐えきれなくなった藩主正茂は大名の身分を捨て、逃げ出す始末。下総(千葉県)で旗本の生活を送ります。
以後鹿島藩は完全に本藩の統制下に入ります。
鹿島藩の藩庁(陣屋)は当初、下流の常広(現・北鹿島小学校)にありましたが、度重なる水害の為、現在の高津原(現・鹿島高校)の場所へ移転しました。
現在、赤門・大手門・庭園及など鹿島陣屋の遺構が残り、その周辺には武家屋敷が 立ち並んでいます。
干拓によって有明海沿岸に広がる農村地帯の重ノ木地区には”くど造り”の茅葺き民家が数多く見られます。くど造りとは藩政時代に家の骨組みとなる木材の長さが、約2間(3.6m)に制限されていた為、部屋数を増やす方法として上か見ると「コ」の字状に発展していった造りのもので、佐賀県に見られる独特の形式です。
正面から見ると寄せ棟の様に見えますが、裏手に回ると2棟が結合した造りであることが分かります。これにさらに一列加えた「ロ」の字型の”じょうご造り”という形のものも存在します。
JR肥前鹿島駅の南側に見える、とんがり屋根の建物は「寿福院」というお寺で、全国的に珍しい方形(ほうぎょ)造り茅葺き屋根のお寺です。
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