枕崎市の隣り、高い山に閉ざされた小さな漁村坊津。古くは日本三大津と言われ、大陸航路の要衝であり遣唐使が寄港する本土最後の港ゆえ「入唐道」とも呼ばれていました。「坊津」の名称は、百済から渡来した僧によってこの地に一乗院という大寺院が建てられた事に由来するします。 秀吉の時代には朝鮮出兵をめぐる意見の対立からこの地に左遷させられた近衛信伊によって京文化が持ち込まれ、神社仏閣の勧請が盛んになりました。江戸時代には坊津をはじめ泊、久志、秋目の四カ所の港に薩摩藩の「外城」が置かれるなど、坊津はそれほど重要な港であり、鎖国後も密貿易によって繁栄を続けます。 しかし「享保の唐物崩れ」と呼ばれる幕府の一斉摘発によって、坊津は一夜にして寒村となったのです。 坊津町の一番南の漁村「坊の浜」には、石畳や海鼠壁の土蔵、武家門をもった密貿易屋敷が残っています。ここからさらに険しいリアス式海岸に沿って野間半島へ登っていくと、坊津町最北端の港にして美しい景勝地である「秋目」があります。日本律宗の開祖である鑑真はこの秋目から日本に上陸しました。