熊本市街の南に川尻という町があります。古くは「河尻」とも書かれ、この地域でもっとも栄えた商港であり、熊本藩時代には重要な軍港でもありました。
中世に川尻氏の城下町であったこの地も、江戸時代になると薩摩街道の宿場町として賑わうとともに、熊本藩52万石のうち20万石の年貢米が集められる重要な河港町へと代わっていきます。川尻には藩の半分にあたる年貢米を保管する御蔵が設けられ、東蔵、中蔵、外城蔵などの倉庫街が立ち並んでいたといい、現在もその一部が残されています。川尻はまた藩の重要な商港でもあり、御舟手や津方会所が設置され長崎や大阪との商取引が行われていました。河港の繁栄は明治以降も続きましたが、やがて明治27年に九州鉄道の開通と川尻駅の設置に伴い、物資輸送は船から鉄道へと切替られ河港の歴史に終止符が打たれます。そして現在、物流は鉄道から自動車へと変わり川尻駅周辺の様子も大きく変わりました。
川尻には旧藩政時代の舟着場の遺構である石段が残され、河港の名残を伝えています。この河港跡に沿った道筋には、往時を偲ばせる伝統的な商家がいくつか佇んでいました。その中でもひときわ目を引く中心的な建物が、慶応3年(1867年)創業の酒蔵・瑞鷹(ずいよう)酒造です。当時川尻には6軒もの酒造家がいたと言われていますが、この瑞鷹酒造は熊本県で最初にできた酒蔵だそうです。
さらに、この酒蔵は近代日本酒に大きな変革を及ぼした「吟醸酒」の故郷でもあるのです。
九州の南地方は日本酒よりも焼酎圏のイメージが強く、実際熊本はその境界線に位置しています。しかし、この熊本から吟醸酒造りに欠かせない「熊本酵母」別名
「協会9号酵母」が生み出されると清酒造りも盛んになり、やがてその手法は全国へと広まって行きます。
古くから
熊本で酒と言えば「赤酒」を指しました。赤酒とは醸造過程で火入れをする変わりに灰(アク)を加えて造る古来からの手法で、あまり品質の良い物ではありませんでした。そこで明治35年、熊本の酒の品質向上を目的に、当時の国税局鑑定部長であり、後に「日本酒の神様」と称される野白金一を招き、この瑞鷹酒造(当時は吉村合名会社)の敷地に熊本酒造研究所を設立しました。そこで「協会9号酵母」が生み出されたのです。
熊本酒造研究は後に分離独立し、県内の酒造家が集まって会社組織となり、現在は熊本市の島崎に蔵を構えています。
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